曽代用水の説明

 曽代用水の説明

1663年(寛文3年)現在の関市一帯は長良川の水位との差が大きく水不足に悩まされ干ばつがたびたび起り荒れ地となっていました。

この地に移住してきた尾張藩の浪人喜田吉右衛門と弟の林幽閑はこれを見かねて、地元の豪農の柴山伊兵衛と相談し、長良川上流の曽代地区から水を引く用水を計画しました。

 

固い岩盤を掘削するため、炭や焚き木の火で岩を焼き水をかけて岩を砕きやすくしてから、たがねと金鎚で掘るという厳しい作業が続き多額の費用がかかり工事費は約5,500両にもなり、三氏は私財を全て使い果たし喜田吉右衛門は離脱し林幽閑も行方知れずとなってしまいましたが、柴山伊兵衛は貧しい小屋に住みながら頑張りとおしました。

 

そして、着工から10年の歳月を経て、約17キロメートルわたる用水が完成し、荒れ地だった関市は美しい水田に生まれ変りました。

農民のために曽代用水完成させた喜田吉右衛門 林幽閑 柴山伊兵衛 の三氏の遺徳を偲んで井神社を建立し、毎年8月1日に例大祭を行って感謝しています。

 

曽代用水の地図

曽代用水地図-1500

曽代用水は美濃市と関市のこんなに広くの農地(1,095.5ヘクタール)に水を供給しています

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

1,684年(貞亨元年ころ)の曽代用水完成から10年程後に書かれた曽代用水路の見取り図です

関領主 大嶋義近時代のもの・・・関市役所所蔵を複写

 

2014年8月20日

下有知自治連支部長 平田忠彦

 

 

曽代用水建設の説明文

 

1. 今から350年前の1663年(寛文3年)現在の関市一帯は灌漑用水に乏しく干ばつがたびたび起り荒れ地となっていました。この地に移住してきた尾張藩の浪人喜田吉右衛門と弟の林幽閑はこれを見かねて、地元の旧家の柴山伊兵衛と相談し、稲田の面積を増加していつまでも農民が豊かになるように長良川上流の曽代地区から水を引く用水を計画しました。

 

2. 1663年(寛文3年)末の用水路企画以来1666年(寛文6年)の春、各領主の許可に至るまで前後4年を要しました。 行政や江戸や奉行所や代官所に幾度となく通い東奔西走のかたわら、用水の通行路や分水口を確定し用水敷地の買収価額・作物の賠償・敷地年貢米上納の方法・新田の開墾や灌漑水の方法に関し各者との交渉に心血を注ぎようやく協定を成立しました。

 

3.  長良川の堰の施設方法・水門の構造・樋管の箇数や寸法・人夫の数・工事の順序などの仕様書を作成する準備に多くの日数を要し1667年(寛文7年)3月にようやく起工式を挙げて立ちはだかる岩の岩石貫通工事を第一着手しました。

 

4.  1667年(寛文7年)8月上有知曽代村の境の氷ヶ淵の大川岸に着手し、1,202間4尺(2,165m)を切り開いて用水を作るのに1669年(寛文9年)4月までの25ヶ月で人夫の数1万1522人、工費は金389両2匁2分を要しました。

 

5.  1668年(寛文8年)上有知曽代村地内の用水路工事に着手して5月までに取水口より上有知村境までの1,172間5尺(2,110m)を切り開いて用水を作りました。

松森地内の用水路工事は1668年(寛文8年)4月に着手し、1669年(寛文9年)4月までに581間2尺(1,046m)を完了しましたが、ここは深い堀で両側の土砂崩落が多く困窮しました。

 

6.  1668年(寛文8年)4月に下有知村地内の用水路工事に着手して1,875間(3,375m)の工事に人夫の数4,094人を要しました。

 

7.  1667年(寛文7年)の春に起工して1年経過して上有知村を切り開いての工事が最も盛んになった1668年(寛文8年)の正月に上有知曽代村地内を起工しました。

1668年(寛文8年)4月に松森村地内・下有知村地内・関地内・小瀬村地内に着手しました。

1668年(寛文8年)中旬から1669年(寛文9年)春頃には各地で行われた用水路工事の延長は南北2里(8km)余になり、人夫の数はおびただしい数に達しました。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA       OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

8.  工事の進展に従い取水口水門の敷節・悪水排除用溝の伏せ込み・架橋工事にともない人夫の掛け声は職工の槌音と調和して山野に満ち日々盛況を極めました。

 

9.  日夜の工事の監督指揮・工程の調査・人夫繰り出し方法の苦心にかたわらで、水路敷節の買収・水路を広げる必要からの敷地の獲得・故障のために契約書の作成や調印・下有知村 関 小瀬村小簗(おやな)の荒原の測量・分配方法や工程報告の課題がありました。

 

10.  さまざまな報告のために行政や江戸や奉行所や代官所に出張したり、各村の庄屋の慰問があったり、下有知の平田代官の巡視があり、これらの応接に発起人は走り回り渾身の心血を注ぎました。

 

11.  こうして1667年(寛文7年)の春に起工して1669年(寛文9年)までの3年で長良川の取水口より小簗(おやな)村字若栗長良川の落水口までの延長7,142間3尺(12.9km)(3里11町2間3尺)を完成しました。

 

12.  1672年(寛文12年)の大洪水の被害で私財を投じ尽くした喜田吉右衛門は離脱し、林幽閑は行方不明になりました。 1人残った柴山伊兵衛も用水管理に多額の費用を投じ没落してしまいましたが貧しい小屋に住みながら頑張りとおしました。

 

13. そうした中で新田灌漑用水支溝の延長6,675間3尺(12km)を完成しました。

また、本田潴水(ちょすい)底所の悪水排除用溝の延長864間(1,555m)を完成しました。

その工費は金1,568両2分銭293文を要しました。

 

14.  上有知曽代村・上有知村・松森村の3ヶ村に於ける用水路敷地の買収料・作物の賠償料・家屋立退き料などその費用は金1,918両2分銭128文と多額の費用を要して曽代用水は完成しました。

 

15.  曽代用水の完成から290年が経過し長良川の河底が年々低下をしました。

ついに夏季の灌がい期には長良川に仮の堰を設置してようやく取水できる状態にまでなりました。

これを放任すれば多年の歴史ある曽代用水は能力を発揮できない状態になり、昭和9年から昭和12年に至る4年の歳月をかけて工事費23万円で以前の取水口から650m上流に新たな取水口を新設しました。

これにより取水量は毎秒9.15立方メーターとなりました。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA       OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

16.  昭和の第2期工事は昭和16年から昭和20年にかけて下有知松森ヶ洞分水から入ノ戸分水までの1,350メーターを工費15万5,400円で舗装および分水設備の工事をしました。

 

17.  第3期工事は美濃市小倉公園下から下有知松森ヶ洞分水までのもっとも重要な中流部分の改良工事を実施するも、終戦時の混乱から一時中止の悲運も経験して今日の曽代用水があります。

 

18. 戦後は昭和32年から昭和42年にかけて幹線水路を9,774メーター、支線水路を4,768メーターの改良工事が2億4,000万余りをかけて行われました。

 

19. 更に昭和57年から岐阜県営かんがい排水事業として幹線水路を5,391メーターの改良工事が約8億円をかけて行われました。

 

20. 計画から10年の歳月を経て完成した曽代用水により荒れ地だった関市は美しく豊かな水田に生まれ変りました。 農民のために曽代用水完成させた喜田吉右衛門 林幽閑 柴山伊兵衛 の三氏の遺徳を偲んで農民は井神社を建立し、毎年8月1日に例大祭を行って感謝しています。

現在の曽代用水は曽代用水土地改良区(理事長 松田洋一)により管理されています。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA      OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

※ 曽代用水土地改良区事務所  岐阜県関市下有知3267の1  電話:0575-22-3268

 

2014年8月23日

下有知役員ふれあいまちづくり推進委員会

委員長 高橋正次(下有知区長会長)

 

 

トラックバック・ピンバックはありません

トラックバック / ピンバックは現在受け付けていません。

現在コメントは受け付けていません。