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私達のまち下有知 点で囲ったところが下有知です。



  下有知はこんなに広くて自然が豊かな美しいまちです。 空からみた下有知全景


私達のまち下有知の意味 私達のまち下有知の有知は知恵のあること 知恵のある者という意味です。
これは中国の逸話集に有知無知三十里という逸話があり、知恵のある者とない者との差がはなはだしいことのたとえです。
魏の国の楊修(ようしゅう)と曹操(そうそう)が曹娥(そうが)の碑のそばを通ったとき、碑に書いてある文の意味を 楊修はすぐに理解したが曹操は30里行った後にやっとわかったという故事が有ります。
この逸話集の有知無知三十里から有知を引用して私たちのまち下有知が生まれたものと考えられます。
広辞苑 goo辞書より



☆ 関市下有知は、1,889年(明治22年)7月1日、町村制により武儀郡下有知村として成立し、その面積 は8.42㎢でした。

☆ 1,951年(昭和26年)3月20日、関市に編入されました。

 * 下有知村と関町(現・関市)との合併は、1,943年と1,950年に計画されていたが、住民の反対などで実現しませんでした。

☆ 現在の下有知中学校は、組合立有知中学校(中有知村と下有知村の組合立)でしたが、1,955年に組合立を解消し、関市立下有知中学校となり、校区は旧下有知村だけで小・中ともに1校の地域になりました。



750年の刀鍛冶の伝統を誇る関市において、不思議なことに鍛冶発祥の地がはっきりしていない。

・市内のある郷土史家は・・・室町時代(1392~1491)中期に下有知重竹地区に規模の大きい兼定屋敷があり、刀匠の和泉守兼定はここで刀を作っていたが、天文3年(1534)の大洪水で土砂の下敷きになったため現在の関市内に移住した。

・昭和56年に重竹遺跡の発掘調査により鍛冶屋敷跡が確認され、屋敷の規模は大きく、地下2メートルのところから多くの出土品が発掘された・・・など、「文献や発掘資料等から考えて、下有知の重竹地区を発祥の地として間違いない」と主張している。




 ☆ 私たちの下有知地域は、下有知村当時と変わらず清流長良川の東側に位置し、東西を貫く国道156号線沿いに広がる自然豊かな穀倉地帯で米の生産が盛んなところです。また、刃物関係の中・小工場が点在し、関市の刃物産業を支えている地域でもあります。

☆ 現在の人口は、平成26年6月1日現在、6,904人(男 3,373、 女 3,531)で、2,507世帯に及び、関市内15地域のうち6番目に人口が多い地域です。

☆ 私たちが住む下有知は、さまざまな災害による危険性や事件・事故等による危険性も少なく、油断はできませんが比較的安全で、とても住みよい地域だといえます。

  さらに、地域の学校は小・中学校がそれぞれ1校のため、義務教育9年間を同じ仲間と過ごすことにより子ども同士、保護者同士ともに強い絆で結ばれています。こうしたこともあって、人びとは穏やかで温かみがあり安心して交流できる信頼感があり、下有知に住んでよかったと誇れる地域です。



 進展する社会のさまざまな変化の中で、改善・改革を迫られている課題が少なからずあるのではないかと思われます。

 このことは、私たちの下有知に限らず、今やどの地域にも当てはまる課題ではないでしょうか。



☆ 現在関市では、こうした課題解決に向けた市長マニュフェストの一つとして、地域住民が主体となって新たな地域づくりを進める「地域委員会」の取り組みが幾つかの地域で始められています。

 * 地域委員会の概要については、当ホームページ「地域委員会」をご覧ください。

 

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