太郎左狐 ( 西仙房山・さいせんぼうやま )

下有知風土記12

下有知に伝わる昔話に 『 太郎左狐・たろうざきつね 』 があります

 

むかし、むかしのずうっとむかし。

関がまだこんなに開けていなかった頃の話や。

サンショボ山 ( 下有知の南の外れで緑ヶ丘中学校裏の西仙坊山、または大洞山とも呼ばれています ) というところに、 『 太郎左 』 という雄の白ギツネが住んどったそうや。

太郎左はまだ一人もんで若いキツネやったんやと。

それから昔あった関所の南側の山で一ツ山には、『 おたけ 』 という雌の白キツネが住んどったそうや。

おたけも一人もんで、うつくしいキツネやったそうや。

 

太郎左はある日、山を歩いていて、おたけを見かけたんやそうや。

一目見て、太郎左は美しいおたけが好きになって、毎日一ツ山まで会いに行ったそうや。

おたけもたくましい太郎左が好きになり、太郎左の来るのを心待ちにしていたんやと。

二人 ( おっ!二匹やな ) は、時間のたつのも忘れて楽しく語り合っていたそうや。

太郎左は、おたけに会いに行く前にはいつも、

「 おたけさーん、これから行くでちゃんと待っていてくれよ~ 」 と呼びかけては、出かけて行ったんやと。

その声を聞くたんび、村の人んたは、

「 今夜も太郎左がおたけに会いに出かけるんやな~ 」

「 ほんに、仲がようていいことやな~ 」 と、うわさしあってあたたかく見守っていたんやそうや。

 

地図 西仙房山-1200

                                                                         西仙坊山

 

ある晩のこと、

「 おお!あれをみんさい 」

「 わあ!きれいなこと 」

なんと一ツ山からサンショボ山にかけて、点々と火がつらなっていたんや。

そうなんや、きつね火がつらなっとったんや。

村の人んたは、

「 キツネの嫁入りじゃ、いよいよ太郎左とおたけが、祝言( 結婚式 )をあげるんやな! 」

「 よかった、よかった! 」

と、祝ってやったそうや。

その晩からは、太郎左の呼ぶ声も聞こえんようになったそうや。

 

太郎左狐

 

村の人んたは、太郎左とおたけが仲良く連れ立って歩いているのを見かけると、

「 おい、太郎左、いつまでもおたけをかわいがって、仲よう暮らせや! 」 と、声をかけてやっていたそうや。

ある日、村人のひとりが、太郎左とおたけが歩いたあとを通ってみると、二匹が掘ったのか、土がやわらかくなっていたそうや。

「 ちょうど、畑にいいあんばいの土やな 」 と、思い、畑に耕やしたところ作物がたいへん良く出来たそうや。

その話を聞いた村の人んたは、太郎左とおたけが仲良く通ったところを見ると、そのたんびに、そこを畑にしてみたんやと。

するとやっぱりその畑もふしぎなことに、作物がよく出来たそうや。

村の人んたは、太郎左とおたけのおかげで作物もよくとれ、豊かに暮らせたそうや。

 

それからずうっとたった、きれいな月の晩、村の人んたは太郎左とおたけが、みんなに向かって、

「 わしらを、かわいがってくれてありがとう 」 と、言いながら二匹仲良く天に昇って行くのを見たんやと。

そして、キラキラときれいに光る二つの星になったんやそうや。

村の人んたは、そんな二匹の魂をまつったお堂をたててやったそうや。

そこんとこが、今の神明町三丁目ちかくの狐塚という地名なんやそうや。

 

それから、またずうっと後の昭和の初めの頃、この話を聞いた 『 雨降りお月さん 』 や 『 城ケ島の雨 』 などを作った野口雨情という人が、

『 太郎左恋しやサンショボ山で、秋の夜長をおたけ欲しや・・・ 』 と、いう唄を残していったそうや。

これが今、唄われている『関音頭』の中の一節なんやと。

 

この文章は、いっぱい関弁を使って書かれているところが面白いですね。

 

「下有知の民話」より要約 著者は判っていません

 

 

※ 下有知の字名に西仙房(さいせんぼう)が有りますが、現在の大人の人達は子供の頃に西仙房を“さんしょば”と呼んでいたそうです。

 

 

昭和05年(1930年)に新作民謡として作られた関音頭に太郎左狐が取り上げられています。

作詞:野口雨情 作曲:藤井清水

 

 

関の孫六 三本杉は ハ ドントショ

水も滴る アリャ玉も散る 志津の三郎も関の鍛冶

ソコズンズン ズイラホイノサッサ

 

浮世捨てねば迷いの雲に ハ ドントショ

空の月さえ 曇りがち 関の惟然坊は世捨て人

ソコズンズン ズイラホイノサッサ

 

夏の夜すがら津保川蛍 ハ ドントショ

何をくよくよ 松の蔭 松の夜露で身を濡らす

ソコズンズン ズイラホイノサッサ

 

太郎左恋しや西所房山で ハ ドントショ 

天の川から 水を汲む 秋の夜長におたけ星や

ソコズンズン ズイラホイノサッサ

 

 

2016年1月7日

下有知ふれあいのまちづくり推進委員会

委員長 高橋正次(下有知区長会長)

 

 

神光寺の天邪鬼 ( 今宮山・神光寺 )

下有知風土記11

 

下有知に伝わる昔話に 『 神光寺の天邪鬼 』 があります

 

みなさんは、天邪鬼 ( あまのじゃく ) を知っていますか?

ある人が 「 赤 」 と言えば 「 いや青だ 」 と言うように、他人にさからってばかりいる、ひねくれ者のことを言います。

もともと、天邪鬼というのは、仏様におつかえしている鬼の子供のことです。

ところがこの鬼の子はとてもいたずら好きで、いろいろな所に出てきては悪さをしています。

 

神光寺の天邪鬼-01-1200 狼の聞き分け 図

神光寺は下有知の今宮地区の今宮山の麓で、近くに白山神社が有ります

 

むかし、むかし下有知で神光寺を造っている時のお話です。

さあ、今日は、お寺の棟上げの日です。

お寺の和尚さん達も村の人達も、どんなお寺になるのかと胸をワクワクさせながら見にきていました。

「 りっぱなお寺になりそうだのう 」

「 ほんとうにのう、いいお寺ができそうだ 」 と言ったり、ワイワイにぎやかに話し合っています。

大工さんたちも、

「 おうい、その木をこっちに持ってこい 」

「 もう少し高く上げろ 」

「 そっちをしっかりささえろ 」 と、大きな声をはりあげて張り切っています。

 

IMG_2697-1200

神光寺の本堂の屋根の下に天邪鬼が見られます

 

そうこうするうちに、ようやく、屋根もできあがりました。

みんなは屋根を見上げながら、

「 大きな屋根だなあ! 」

「 立派なもんだ! 」と、感心したり、ほめたりしていました。

すると一人の大工さんが、

「 たしかに、大きくて、立派だが、こんな大きな屋根を支えるのに、二本ばかりの柱で大丈夫だろうか? 」 と、心配そうに言い出しました。

 

他の大工さんたちも、

「 そういえば、太い柱は太い柱だが、二本ではちょっと、心細いなあ 」 と言いました。

「 いやいや、大丈夫だ。 あれだけ太いんだから 」 という大工さんもあります。

「 どうかなあ。 やっぱり、もっとたくさんの柱を使わないと屋根の重さにたえられんぞ 」 という人もおります。

「 大丈夫だ 」 「 いや、心配だ 」と、大工さんたちが、ガヤガヤ、にぎやかに話し合っていました。

 

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天邪鬼が頑張って大きな屋根を支えています

 

そんな様子を、どこからか見ていた天邪鬼が、ニタニタ笑いながらやってきました。

「 大丈夫、大丈夫。 いらん心配せんこっちゃ 」 といって、大工さんたちをからかいました。

「 天邪鬼か、また何か悪さをしにきたな! お前に建物のことがわかるか。 いらん口出しするやない 」 と、怒りました。

すると、天邪鬼は、「 いいや、おれは、いろんな寺を見て来ているからわかるんだ。

これくらいの屋根だったら、二本の柱で充分だ。

こんな屋根、おれだって、持ち上げれるよ 」 と、バカにしたように言いました。

すると大工さんが、「 それなら、おまえが一度、ためしに持ち上げてみろ 」 というと、天邪鬼は、「 こんなものは、軽い!軽い! 」 と言いながら、さっそく屋根の下に来て、棟木を持ち上げました。

「 どうだい、軽いもんだ 」 とみんなに自慢していました。

 

大工さん達は、ここぞとばかり、サッと他のツンバリを取ってしまいました。

びっくりした天邪鬼は、棟木を手離すこともできず、必死になって屋根を持っています。

「 こら、何をする。早くツンバリを入れてくれ。 重たいよう 」 と叫びました。

大工さん達は、「 おうい、大丈夫か!そこでしっかり屋根をささえていてくれよ。 屋根は、お前にまかせたからな。たのんだぞ 」 と天邪鬼に向かって叫びました。

そして、「 これで安心だ。 もう大丈夫 」 と言いながら、帰ってしまいました。

それ以来、神光寺の屋根は、今でも天邪鬼が支えているのです。

この屋根は、伊勢湾台風の時にも飛ばされなかったのです。

きっと天邪鬼が、必死に頑張ったのでしょうね。

 

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神光寺の山門                      昔は西側が正面で山門もこちらに有ったそうです

 

 

さて、この天邪鬼が屋根を支えている神光寺には、もう一つ有名な話があります

 

そのむかし、今から八百年ほど前、源義家が、東北の賊を征伐に行く途中、関を通りました。

そして神光寺に立ち寄って、この戦いがなんとか勝てるようにと、祈願しました。

神光寺の本院様 (神官さんとお坊さんの役をかねた人) は、義家に

「 今年は、運勢がよくありません。 征伐に出かけても、勝てるかどうかわかりません。 今年はやめて、来年まで待って、もう一度出かけられた方がいいと思います 」と、忠告しました。

しかし、この征伐は、朝廷の命令で出かけているのですから、自分勝手に中止するわけには、いきません。

義家は、困っていろいろ考えました。そして、神光寺に法華経、二十巻を納めて、年越しの行事として、

「 これで、運勢のよくない今年は終わった。 あすからは正月だ 」

といい、六月だったのですが、正月の行事を行うことにしました。

 

神光寺の天邪鬼-02-1200 IMG_2721-1200

東海環状自動車道が今宮山を貫き、すっかり昔の面影が消えたとの事です

 

すると不思議なことに、翌朝、雪が降り出しました。

あたり一面、紫色の雪が降り積もっています。

義家は、家来に命じて、雪の降っている地域を調べさせました。

すると、雪は、神光寺のまわりの 『 今宮村 』 だけに降っていたのです。

その雪を見た義家は、

「 仏様が、私の願いを聞き届けてくださって、正月にしてくださったのだ。 今年は、確かにきのうで終わって、今日からは、新しい年になったのだ 」 と、確信して、東北へ賊の征伐に出かけました。

 

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参道には四国八十八箇所めぐりの石仏が鎮座しています。

昔は、今宮山に祭って有ったのが、東海環状自動車道が通った為にここに移動させられた・・・と地元の人のお話です。

 

さて、この今宮村 ( 現在の下有知今宮 ) にあるお祭りは、「 ヨイヨイ祭り 」 とも言われています。

おみこしをかつぐ時のかけ声が、世の中が良いように、田や畑の作物が良くできるように 「 ヨイヨイ、ヨイヨイ 」 と言うからです。

 

関市の倉知祭は、 「 サンヤッホー 」 ( 山野豊・・・野も山も豊かになるようにの願いを込めて )

 

美濃市の美濃祭は、 「 ワッショイ、ワッショイ 」 ( 和紙良い、和紙良い )と言います。

とても面白いですね。

 

 

今も神光寺では天邪鬼が屋根支えています、皆さんも頑張っている姿を見て来てください。

 

 

「下有知の民話」山田隆氏 著 より要約

 

2016年1月5日

下有知ふれあいのまちづくり推進委員会

委員長 高橋正次(下有知区長会長)

 

狼の聞き分け (唐栗山)

下有知風土記10

下有知(しもうち)に伝わる昔話に 『狼の聞き分け』 があります

 

丸の中に四角い穴のあいた 「寛永通宝」 が通用するより前のお話です。(江戸時代より前となります)

唐栗山のふもとに末次郎というお百姓が住んでいました。

秋の取り入れも終わり 「寒い冬が来てもええな。来年までは・・・」 と言いながら、ふと薪小屋を見ると薪が少ししかありません。

「こりゃいかん。これでは冬が越せん」 と言い、翌日は朝早くから背板を背負い、鎌や鉈を持って薪を切りに出かけました。

 

狼の聞き分け-5-1200 狼の聞き分け 図

下有知中学校の校歌に歌われる唐栗山、ここに下有知中学校のマスコットキャラクター「からちゃん」が住んでいます

 

山へ着いても一服もせず仕事にかかったので、神光寺の鐘がゴ~ンとお昼を告げた時には、他の者なら一日分になる程の薪を切り出していました。

昼弁当を食べながら、ふと前を見ると可愛い子犬がしっぽを振っています。

「こっちへおいで」 と抱き寄せ、頭をなでてやり弁当を分けて食べさせました。

 

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少し離れた今宮山の麓にある神光寺の鐘つき堂          「からちゃん」

 

弁当が終わり午後の仕事に取り掛かっても、子犬はその辺りをころころ歩き回っており、やがて日暮れ時になりました。

子犬をこんな山に残しておくのは可愛そうだと思い、子犬をふところに入れて家に帰りました。

家の人達は珍しがって、箱に藁を敷いて寝床を作ってやり、どんぶりにご飯を入れ味噌汁をかけて食べさせました。

 

狼の聞き分け-1200 狼の聞き分け-4-1200

唐栗神社の石段

 

真夜中のこと、バリバリ、ドンドンドンと戸をたたく音がしました。

初めは風の音かと思いましたが段々と音が大きくなり、ウォ~という唸り声まで聞こえたので、びっくりして戸を開けてみると大きな狼が二匹いました。

 

狼の聞き分け-3-1200 狼の聞き分け-2-1200

唐栗山山頂にある唐栗神社

 

末次郎さんはそこに座り、人にお詫びをするように手をついて 「今日の子犬はお前たちの子じゃったのか。わしは知らんもんで拾って来てしまったが、まことにすまんことをした」

「今夜は暗いで、明日はちゃんと連れてって元の所に返すで、帰ってもらえんじゃろか」 と丁寧に言いました。

すると、二匹の狼は大きくふた声吠えて帰って行きました。

 

末次郎さんは、「ああ、狼とゆうものは、何と聞き分けの良いものだ」  と感心したそうです。

 

 

「下有知の民話」池村兼武氏 著 より要約

 

2015年12月29日

下有知ふれあいのまちづくり推進委員会

委員長 高橋正次(下有知区長会長)

ずっとん和尚 (唐栗山・唐栗神社)

下有知風土記9

 

 

下有知(しもうち)に伝わる昔話に 『ずっとん和尚』 があります

 

下有知中学校の校歌にも歌われている唐栗山(からくりやま)の頂上に唐栗神社(からくりじんじゃ)がお祭りしてあります。

そして、その山の東側に黄檗宗(おうばくそう)の松洞院(しょうどういん)というお寺がありました。

このお寺に、良寛さまみたいに子供の大好きな和尚さんが住んでいて、朝のお勤めを済ませた後は一日中子供と遊んでばかりいました。

 

ある日のこと、和尚さんが裏山に登ってみると狸が一匹じっと和尚さんを眺めています。

その顔がいかにも可愛かったので 「おう、おまえも一人ぼっちで淋しいか、お寺へおいで」 と声をかけると、狸は和尚さんについてお寺までやってきました。

「狸や、よう来たな。お供えのお餅をやるで食べな」 と言ってやりますと、喜んでそれを食べ、それからは夜でも遊びに来るようになり、和尚さんとすっかり仲良しになりました。

 

ずっとん和尚-03-1200 狼の聞き分け 図

 

ある晩のこと、和尚さんが目を覚ますと、ズットン、ズットンと音がします。

何だろうと思って見に行って見ると、雨戸の節穴から狸のしっぽが出たり入ったりして、そのたびにズットン、ズットンと音がします。

 

しばらく黙って見ていましたが、いつまでたっても止めないのでしっぽが節穴からぐっと出た時に力いっぱい引っ張りました。

「キャンキャン」

びっくりした狸は逃げて行き、それからはもう遊びに来なくなりました。

 

それからは子供達は和尚さんのことを 『ずっとん和尚』 と呼ぶようになり、子どもと和尚さんはこの狸遊びをするようになりました。

狸遊びのやり方は、狸役になった子は帯をぞろ~んと下げ、壁の穴などに差し込みます。

それを和尚さん役になった子が不意に引っ張ると、狸役になった子はキャンキャンと大声をあげて逃げるのです。

この遊びは大正時代まで続いたとの事です。

 

ずっとん和尚-01-1200 ずっとん和尚-02-1200

 

唐栗山の東側の麓には沢山の石仏が祭られています、真ん中が和尚さんで回りの石仏は子供達でしょうか?

あたりはきれいに整備され管理されています、むかし子供達が遊んだ狸遊びを想像してお参りして下さい。

 

 

「下有知の民話」池村兼武氏 著 より要約

 

2015年12月28日

下有知ふれあいのまちづくり推進委員会

委員長 高橋正次(下有知区長会長)

気楽さま (八幡神社)

下有知風土記7

下有知(しもうち)に伝わる昔話に 『気楽さま』 があります

 

むかし下有知の中組に気楽さまと呼ばれる一軒の豪農がいました。

この豪農はたいへん気立ての良い人で、いつもみんなの暮らしが良くなるようにと考えていました。

そして神や仏も大切にし、広い屋敷の中には神様や仏様をまつり朝晩にお参りしました。

よく勉強をして色々な事を知っていたので、組や村の人達は判らない事があると聞きに行き、難しい問題が出きるとこの人に相談するようになりました。

村の人達は、この人を神様のような人だと尊敬していました。

 

狼の聞き分け 図 気楽さま-08-1200

 

こんな良い人なのに、どうしたことか子供が有りませんでした。

気楽さまはある日 「人はいつかは死ぬ時がくる。せめて生きている間に村や組の人に喜んでもらえるような事がしたい。」 と考えました。

「この中組は道や橋が悪い。まずこれを直すことだ。」 と思いました。

自分のお金を出して、今までに見たこともない石で造った橋を架けました。

「木で作った橋は水が出ると流れてしまうが、今度は流れなんだ。」 と、みんなは口々に喜びました。

それからこの辺りを石橋と呼ぶようになったのです。

 

気楽さま-01-1200 気楽さま-03-1200

 

その頃、八幡様を山の上に祭ることになりました。

土盛りや石組み、拝殿造りなどの重労働も先に立って毎日働きました。

八幡様の拝殿の石垣や石段の石は、この人がお金を出して志摩や生櫛の人に運んでもらったと言われています。

 

気楽さま-02-1200 気楽さま-04-1200

 

この人の顔はいかにも穏やかで、いつもにこにこしていたので 『気楽さま』 と呼ばれたのです。

そのうちに気楽さまも年をとり病気になりました。

中組の人達は心配して 「早く治りますように。」 と、神や仏にお祈りをしました。

それでも病気はだんだんと重くなり、ある晩のこと苦しい息の下から 「わしは、もうじき死ぬだろう。わしが死んだ後は山も田も畑も、みんな中組の人達にあげましょう。」 と言い、ついに亡くなりました。

 

気楽さま-06-1200 気楽さま-05-1200

 

中組の人達はひどく悲しみ、ねんごろに弔いました。

そして気楽さまをたたえてお地蔵様を建てて毎年8月11日に御祭りをする事になりました。

それが八幡神社前にある 『笑翁気楽地蔵様』 です。

 

その後、気楽さまから頂いた田を気楽田といって、この田から取れる穀物を笑翁気楽地蔵様 (しょうおうきらくじぞうさま) にお供えして、お祭りをするようになりました。

この祭りは 『提灯祭り』 と言って、赤と白の和紙で貼った提灯にろうそくを灯してお祭りをするのです。

 

山の子-07-1200

 

『 笑翁気楽地蔵様 』は八幡神社の石段のもとにおまつりしてあります、近くには山の講もおまつりしてあります、皆さんもぜひ訪れてみてはどうでしょう。

 

「下有知の民話」池村兼武氏 著 より要約

 

 

2015年12月27日

下有知ふれあいのまちづくり推進委員会

委員長 高橋正次(下有知区長会長)

 


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