斎宮社

下有知風土記4

 

 

斎宮社の説明

 

平成三年六月吉日に書かれた、『斎宮社云々伝えの記』の記録に基づいて記します

冒頭には『この記事は終戦直後に当時美濃市在住の退職された先生が近郷の歴史や伝説 古き事を自分の目と耳と足で尋ねられ記載されました』・・・と書いてあります

美濃市在住の退職された先生いつ頃に書かれたのかそしてお名前は誰なのかという事、また著者のお名前も書いて無い事が残念です

この『斎宮社云々伝えの記』の記録は下有知の白山神社・八幡神社・唐栗神社・秋葉神社の宮司である大野勝己様が保管されていた文書を提供して頂きました

 

下有知で古き社の一つで有る斎宮神社は、当時は無格神ながらも立派な社で向山の麓に祭祀(さいし)されていました

シャゴジ様・シャグジ様・オシャゴジ様・サイグウジン様などと呼ばれていたのが斎宮神(サイグウジン)となったようです

斎宮神の屋敷と呼ぶ杜(もり)は隣り合わせに祀られた山之神の屋敷と接し、双方共にかなり広い面積があり杉や檜の大木が茂っていました

昭和初年まで村井一族十数戸の氏神として向山の麓に祭祀(さいし)されていました

 

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向山神社                         向山神社の杉林の右側に斎宮神跡と山之神があります

 

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斎宮神跡を示す石碑があります             山之神が祀ってあります

 

祭神が何によるかは知る人は居ませんが、むかし村の地を測った間縄(けんなわ)を祀ったと各家に伝えられています

  • 間縄(けんなわ)は一間ごとに印をつけた縄です

この地は古くから名も無い尊い所なので、村の地を測った時に間縄を収めて一寸社(いっすんじゃ)と名づけたのがシャグジと呼ばれ、斎宮神となったようです

 

明治時代の終年に向山神社に合祀されましたが、その際に拝した御神体は幣束と杓文字(しゃもじ)のような物でした

  • 幣束(へいそく)は幣(ぬさ)とも言われて裂いた麻やたたんだ紙を細長い木にはさんだ祭具で、祓串のように参拝者に対する祓い具として用いられる

 

 

山王山の麓には、

北東に日吉神社があり(昭和十三年九月三十日に合祀して向山神社となりました)
東側に斎宮神社と山之神があり(現存します)
南東に『日本武尊(やまとたけるのみこと)が休まれた』という伝えがある泉があり(現在は確認できません)
南側にはチシャゲ場に馬頭観音を祀り(現存します)
南西側を杉ヶ洞と呼び古くから埋墓(うめばか)がありました(現存します)

※ チシャゲ場は馬の爪を切る場所です

 

山王山付近図のコピー OLYMPUS DIGITAL CAMERA

下有知山王山付近の地図                        斎宮神跡の広場

道路沿い石仏 OLYMPUS DIGITAL CAMERA

左から2番目が馬頭観音です                 北から見た山王山全景 左裾野に向山神社があります

 

明治時代以後斎宮神は日吉神社の境内神として形式的に保存されていましたが、大正五年に社費用捻出のために斎宮神の屋敷の一部の木を伐採した時に、古木の下の岩石で四角び囲み砂を敷き詰めた中に刀身・鉄鏃(やじり)小玉・官玉が入っていました

刀を埋めた上に植樹をしたものと思われます、刀身は一番底にあり刃は北向きに納められていました

斎宮神と出土品の繋がりは不明です

 

斎宮神の出土品は大正五年十月三日に帝室博物館(現在の東京国立博物館)に寄贈されました

刀身: 長さ三尺六寸四分

鉄利器: 長さ5寸四分  片・刀鋒 菖蒲形

鉄鏃残片: 腐蝕

小玉: 銅製 1個破損

官玉: 碧玉(へきぎょく)岩製 長さ八部弱

 

明治時代の終年に向山神社に合祀された後は社の無くなった斎宮屋敷は開墾して一時畑としたが、下肥を使った者に過ちが起こり今では竹薮となっています(現在は向山神社の駐車場と一部分は竹薮です)

 

※ 下有知の歴史には疎い私がまとめましたので間違いが有るかと思います、また他に関係する事でご存知の方がおられましたら是非教えて下さい。

 

2015年1月2日

下有知役員ふれあいまちづくり推進委員会

委員長 高橋正次(下有知区長会長)

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